2000年5月
「最後の晩餐」
ゲサンのないように。
この言葉ご存じですか。はっきりとはわかりませんがこの地方の方言のようです。宴もたけなわの折り、定刻が近づくと幹事さんが出席者に呼びかけます。「みなさん、ゲサンのないように」。目の前にあるものを残すことのないように。(遠慮なく、十二分に召し上がってからお帰りになって下さい)・・・・そんな意味の言葉です。残したらもったいないですよ、というようなニュアンスも含まれています。私はこの言葉、結構気に入っています。実際に食べ物を作っているからでしょうか、農産物を大切にしましょう、食べ物を粗末に扱わないようにしましょう、そんな風に聞こえてきます。
ところで、このゲサン、一体どんな字でしょうか。ある人によれば、「下」という字に、最後の晩餐の「餐」だとか。下餐のないように・・・・ごちそうを下に置いていかないように、強引に説明すればそんな意味になります。
キリストの最後の晩餐。明日死ぬとわかっていて、死ぬ前に食べる最後のごちそう。それが「最後の晩餐」です。
ちょっとみなさん、想像してみて下さい。明日死ぬ。そして今日これが最後の食事。どこで誰と何を、食べたいですか。明日死ぬのなら、もう食べんでもええ、という人もいるでしょうし、いつもと同じく普通の食事、という人もいるでしょう。普段我慢している甘いものをここぞとばかり、思いっきりたべてみたい、または医者に止められている酒を浴びるほど飲んでみたい。いろいろありますね。
この最後の晩餐の問いは、その人の食べ物にたいする考え方だけでなく、豊かさや貧しさ、いろんなものが表に出ます。さらにいえば、生き方、人生観、死生観まで、わかるような気がします。私の場合は、やっぱり自分で作ったお米を食べたいですね。おいしいとかマズいとか軽々しく批評しながら。あとはナスのぬか漬けか何か。それと果物。ハッサクかソルダムがあればいいですねえ。そんなにたくさんは要りません。明日死ぬのですから・・・・ハハハ。
よくよく考えてみると、食べるということは別の命を殺すということです。別の言葉を借りれば「殺戮行為」です。動物を食べるにはもちろん殺さなければなりません。植物も、そう。菜っぱも果物も、いつも食べている米でさえ、命あるものからその命を奪い取って、私たちは自分の栄養滋養としています。テーブルに並んでいるものはみな虐殺された死体ばかりです。ですから、できる限りおいしく、そして、ゲサンのないように、いただかなければ、死者にたいして失礼です。私たちも早晩死んでゆくのですから。
今回は、生きるの死ぬのと深刻な話になってしまいましたが、季節はぽかぽか陽気の春。最も美しい季節です。鳥もカエルも虫も雑草でさえも、元気良く生きています。
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