「 野 火 」


 映画「野火」を先日観ました。
 今年は、戦後70年の節目ということもあり、各地でさまざまな記念行事、出版、集まり、勉強会、イベントが催されました。「野火」もその1つ。大岡昇平の原作で、以前にも映画化されたそうですから、活字やスクリーンでその内容をご存知の方も多いことでしょう。
太平洋戦争の末期、フィリピンでの出来事です。敗勢の色濃くなった日本軍は補給もままならず、空腹の兵隊は食料を求めて熱帯のジャングルをさまよいます。病気、疲労、恐怖、孤独、飢餓、そして殺人。極限ともいえる状況の中で、人肉を食べてでも生き延びるべきかどうか、悩み苦しむ主人公。ぎりぎりの命の淵で、ひとは何を考えるのか、ひとはどうなってしまうのか。とてもとても重いテーマです。
生と死の境にいる兵士にとっては、国体護持もへったくれもありゃしません。理性のかけらも無くなります。「腹が減っては戦はできぬ」なんて甘いものではなくて、「腹が減ったら人間じゃなくなる」・・・。
私は原作を読んだことがありましたので覚悟はしていたのですが、映像はあまりにショッキングで、胸にぐさりと刺さりました。

 私たちは飽食の時代に生きています。とりわけ現代の日本国は、廃棄食料の量が世界一ともいわれています。
 70年でほんとに変わったものです。
 農村では十分食べれる野菜であっても、規格外で値段がつかないからといっては捨ててしまいます。ひどいときには流通価格が安すぎるからと、出荷できる野菜でさえトラクターでつぶしてしまいます。作った野菜を売るよりも、潰して補助金を受け取るほうが利益になる、ということもありましょう。
 都会からも、コンビニ弁当は捨てすぎだろう、いやいや確かにあれではカラスが増えるもと、食べ物がありすぎてホームレスでさえ糖尿病予備軍だ、と極端な話題もときに聞こえてきます。
 もったいない婆さんがいれば、叱られそうなほんとにもったいないことですが、生産者である農家も流通業者の小売店も、販売価格を維持するのに必死で、それ以上は気を回す余裕がないというところが本当でしょう。経済を回すこととおいしく食べることにばかりとらわれていて「食べ物に対するある種の敬意」が薄れているかもしれませんね。

 私は肉を食べるために鳥を絞めたことがあります。生の魚もさばきます。もっと大きい動物、豚や羊は目の前でバラされるのを見たことがあります。そういう肉を食べて、毎日生きています。
 植物の野菜だってコメだって、命あるものです。食べる為に育てて、育てたものの命を奪って、それを食べて命をつないでいるのです。それは命の受け渡し、命のリレーです。値段が高いとか易いとか、味が美味しいとかまずいとか、そういうことを考えるよりも先に、何か忘れてはならないことがあるような気がしてなりません。
 「ご飯つぶを残すと目がつぶれる」という言葉を思い出してみると、古くさい迷信ではあるのですけれど、自分が生きるために食べているのだから、食べ物に生かされている、食べ物には感謝していただこう、そういうことなのではないでしょうか。自戒をこめてそう思います。
 せめて今日から「いただきます!」「ごちそうさまでした!」をちゃんと発声して食事したいと思います。


 
シベリアから、白鳥がやってきます
 
雪が降る前の冬囲い
 
コスモスと、久々の秋の青空

 秋の深まりと共に雲が増えてきます。





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