「歴史散歩」

 大学生のころ、自転車で東京〜大阪間を何度か走りました。
 レースに出るとかタイムを競うのではなく、私の場合は「広重の東海道五十三次」が好きで、広重の見た風景はどんなだったのかを知りたくて旅行したのです。乗り物は自転車でしたが、走破というより「散歩」と呼ぶほうが近いです。カバンには、江戸時代の古い地図と広重の図案、そして私自身のスケッチブックを携えて・・・。
 当時の大動脈であった東海道は、JRの東海道本線や国道1号、東名高速などに代わっています。現代の地図では、川に橋が架かり、土の道は舗装道路に、峠はトンネルになっています。それでも、食堂や和菓子屋さんなどが現代でも老舗として営業しているのを発見すると、なんだか昔がしのばれてとても嬉しいものです。
 人が感じる雨のにおいや風の強さ、空の高さも、木々の緑の色だって、たぶん同じです。何一つ変らずきっとそのまんまです。

 いま手元に、80年前の新潟市の地図があります。
 ご存知のように、新潟市は本州日本海側最大の市で、また唯一の政令指定都市。日本一長い川である信濃川はこの街で日本海に注ぎます。
 この古い地図を見ると、信濃川の河口の幅は今のなんと2倍、駅のすぐそばまで川岸があったようです。新潟県はそもそも地名に「潟」の文字がありますし「地図にない湖」と別名があるくらいですから、極端に言えば沼の真上に建設された街なのです。
 このくらいの規模の都市には普通、地下鉄があるものですが、新潟では海抜ゼロメートル以下のところも多いうえ、地盤が軟弱すぎて地下空間が保てないとの理由で、地下鉄はおろか地下街すら満足にありません。
 戦後の街の地図を様変わりさせたのは、埋立て工事と巨大排水ポンプの設置でした。

 今年の夏はとても雨が多かったですね。
 新潟県はもともと豪雪地帯ですから川の水量は年中多く、台風直撃はないものの雨量も決して少なくありません。もちろん、度重なる洪水によって肥沃な土壌が生まれ今の稲作地域が形成されてきたわけです。濁流が流れる川を見ることには慣れています。
 あらためて古い地図を見ると、水との闘いの歴史を思わずにはいられません。水田というのは田に水を引くことが始まりで、田を作るとは水路の確保のことです。ところがほかとは違い、新潟の田んぼでは田んぼからいかに水を抜くのかどうやって排水するのかが田んぼの管理の基本になります。水が枯れて干上がってしまうイネよりも、湿害で根腐れを起こすイネのほうが多いのです。
 私たちの上越市は、県庁所在地の新潟市から百数十キロ西に離れており、距離だけで見れば、長野や富山のほうが近いのですが(新幹線も北陸新幹線の沿線です)、気候や土質で考えるとやはり「新潟」という同一の県であることを実感します。水が多くて、夏は暑くて、雪が多くて、湿地でコメを作っては、舟を浮かべて運搬した、そんな歴史がやはりとても似かよっているのです。
 都道府県の線引き(昔でいえば藩の境界)というのは、よくできているものだなと感心しますね。同じ県に住む人には、同じような感性、文化、県民性がありますよね。
 新潟県内の、水田や川の多い風景、水や雪との関わり方、生業としての農業、そういったものは共通のもので、ほかとは一線を画しているように思います。新潟には農業についての哲学みたいなものがしっかりあって、基幹産業として農業が据えられていると感じます。いや、こう思うのは、自分が農家だからでしょうか。

 天気予報が精度を増し、河川の洪水対策が進んで、新幹線が出来て、高速道路網が張り巡らされて、80年ほどで地図は大きく変わりました。
 しかし、空から降ってくる雨の強さや温度が変わるわけではありません。風の吹く方角や匂いが急に変わるわけではありません。雨や、風や、雪や、土や、木や、水や、気温や、光や、虫や、花や、私たちをとりまく自然はどのくらい変わったのでしょうか。100年前とほとんど変らないのではないかと思います。そこに生活があり、苦労があり、うれしさと悲しみと生きがいとむなしさがあります。忍耐と歓喜があります。
 人間のこころの領域はなかなか変わりません。おいそれとは変えられません。
 先人たちも雨の多い年には、同じ空を見上げ、同じようにイネと対話し、気を揉んだのではないでしょうか。
 


夏の終わりには虹が多い

イネの頭が垂れてきた




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