「 外国人」
2019年8月号

 
 老人が言います。「うちの兄ちゃは『たび』に出てて、東京なんだわ」
 この場合、息子さんは旅芸人やバックパッカーではありません。この地方の方言で、生活の基盤が地元から離れることを「たびに出る」といいます。つまり「たびに出て東京」とは、東京で仕事をして生活している、という意味です。
 新潟は農業の県です。頭の中に、農業の生活圏という地理的なある大きさがあります。そのエリアの外はすべて「たび」。よその地域から移住してきた人も「たびから来た人」です。
 人口は減っていますが、外から来る人がいないわけではありません。ポツポツと、いわゆる「たびの人」が入ってきます。旅行者ではなく生活をする人です。スリランカ人、バングラディッシュ人、中国人の若い人たちが、別荘として空き家を買っています。 また、県外からの人たちは、喫茶店やラーメン屋、民宿といった小さな商売を始めました。
 雪深い田舎ですから、ずっとここで暮らす地元の人は「なんでまあ」とあきれたような、驚いたような声を上げます。でも、本人たちはそれなりに自分の意志を持って移ってきているように思います。
 政府やマスメディアは高齢化問題や労働者不足の解決方法として「移民の受け入れ」を話題にしますが、私が見るに、近隣への移住者は、戦火を逃れてとか、基本的人権を求めてとか、何とかメシにありつくためとか、そんな誰もがわかる正当な理由でやってきたわけではありません。そもそも、セカンドハウスを買うのでも、お店を開くのでも、金銭的な物差しだけならば、東京に向かうほうが本筋で、雪国に移住する意味はないでしょう。
 農業社会には農業社会のルールがあり、工業社会には工業社会のルールがあります。
 農業社会では、自分に与えられた農地を家族で一所懸命に耕して、封建領主に年貢を納めて、領主から一定の保護を受ける・・・、という幸せのかたちがあります。人生の意味といってもよいかもしれません。
 やがて産業革命がおこって、工業社会に変わります。金融が巨大化し、交易がグローバルになり、封建領主に変わって国家や会社が世の中の枠組みを作ります。農業社会は「過去の遺物」になり、人類は進歩して、田舎から都会へ人は移り住んでいきます。(もちろん、いつの時代でも変わったヤツ、へそ曲がりなヤツはいるもので、頑固に田舎に留まったり、農村回帰と称して都会からIターンしたりします。)
 いま、工業社会から情報社会に世界が劇的に変わりつつあります。工業社会では「都会に住むのが主流派」で「田舎に住むのは非主流派」だったですけれど、情報社会ではどこに住むのが良いのでしょうか。アメリカのIT産業の中心地は、工業社会の政治の中心地や金融センターとは、必ずしも一致しません。ひょっとして金銭的な物差し以外の新しい価値観が生まれるのでしょうか?
 田舎暮らしを目指す新しい移住者を見つけると(私も移住者ですが)、時代の変化を考えずにはいられません。

 ところで、フェルナンド・トーレスという世界的なサッカー選手が、いま日本でプレーしています。私はサッカーが大好きなので生のトーレスを見に行きました。弱小チームでパスも回ってこないトーレス。一種の寂しさが漂います。ヨーロッパや中国でプレーすれば10倍の年俸が保証されたと言われているのに、なぜ日本を選んだのでしょうか? 使命感でしょうか。それとも世捨て人なのでしょうか。よくわかりません。
 中世から近代へと歴史が動いていくときに、コロンブスという人が新大陸を発見しました。
エンジンすらない船で大海へ出ていったコロンブスに、野心や冒険心があったのは間違いありません。でも、そんな単純な話なのでしょうか。旧秩序に対する飽き、失望、幻滅なんかはなかったのでしょうか。新秩序への希望や好奇心と、正負いろいろな感情が入り混じっていたのではないでしょうか。
 私にはトーレスとコロンブスが重なって映ります。新しい世界の幕開けなのだとすれば、外国人の目線で何でもかんでもものを見たいものですね。「世界は広い、旅に出よう」です。












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