「モンゴル人と日本人の持ち物」
2020年2月号

 世界史で「モンゴル帝国」というのを習いました。有史以来、最大の領土を支配したモンゴル帝国。東は日本から、西はポーランドまで攻め込み、イランやインドにも、その後、次々と王朝を打ち立てました。
 しかし、そのモンゴル人は現代に至るまで、多くは遊牧民であり続け、羊を飼いながらテントで暮らしています。(相撲で名を成したモンゴル人は、ウランバートルに近代的なマンションを建てるでしょうが・・・) 羊飼いなのに世界最大の国?
 モンゴル人の強さの源泉はなんだったのでしょうか。当時のモンゴルでは、何に価値の基準を定めて、何に重きを置いたのでしょうか。モンゴル人は定住しないのですから、食料を生み出す農地とか不動産なんていう概念は、ほぼないと思われます。ましてや農業に精を出す、なんて理解できないのではないでしょうか。
 日本には「農業をすること」の意味があって、これは日本人だけにわかりうる何らかの認識、共通理解が存在するように、私には思えるのですが、どうでしょうか。
 歴史をたどり、また隣の国に目をやると、価値観はほんとうに多様だなと思い知らされます。

 東京をはじめとする大都市の中心部の不動産の値段は、右肩上がりで上がっているようです。ようです・・・というのは、私にはあまり縁がない話だからで、ほとんどの地方都市の地価は年々下がっており、私にはこちらのほうが身近に感じられるのです。
 地方の土地のなかでも、農業用の土地はダダ下がりです。住宅地なんかまだいいほうで、農地はびっくりするほど安くなりました。近隣では、この20年で3分の1以下になっています。
もちろん、価格が3分の1になったとしても、その価値が3分の1になったわけではありません。異常気象が続いているとはいえ、収穫量が半分以下になったりすることはありませんから。(日本はともかく)世界全体では人口は増え続けていますし、中国やアメリカでも砂漠化の進行を食い止めることが出来ず、農地は増えていないのですから、食料の需要はひたすら増すばかり・・・。
 ジム・ロジャーズというアメリカ人の投資家は、今こそ農地を買え、と農業を奨励しています。
 ただし、そうは言っても日本には「農地法」という厄介な法律が目の前に立ちはだかって、鍋や釜を買うようにホイホイと農地を売買することは出来ません。いろいろな規制でがんじがらめなのです。農業を継ごうとする人がいないうえに、農地を売買するのは容易ではない、とくれば、農地の価格が暴落するのは当たり前。なので、農地の値段が下がっているのは、政府の誘導とも言えなくはありません。
 都会の地価は、坪単価やu単価で計算されます。私たちの農地では1反あたりいくら、と考えます。面積を比べると1千倍も違うのに、その単価は1等地に比べて大幅に安いのですから、この価格差の大きいことと言ったら、同じ国内とは思えないほどです。
 そこで、現代日本において農地とは本当に資産なのか、という純粋な疑問が湧いてきます。
 戦国時代や江戸時代は「石高」という物差しで、藩の経済力を示したので、広大な農地はまさに豊かさの象徴であったことでしょう。獲れたコメは通貨でもあったわけで、田んぼという装置がお金そのものを生みだしていたのです。ですから、面積が広いことやその所有権を誇示することに、実体として大きな意味があったことでしょう。
 しかし、それは歴史上の出来事、遠い昔の常識です。

 封建社会(農業社会)では広大な農地が、近代社会(工業社会)では大量の株式が、人々の財産でありました。「財産3分法」(財産は、現金+株式+不動産の3つに分けて持つべき)なんていう考え方もありました。
 来たるべき情報社会では、何が財産になるのでしょうか? 大企業や国家の握るビッグデータでしょうか? それとも個人のみずみずしい感性やネットワークでしょうか?
 答えはわかりませんが、まったく雪のない、名ばかりの雪国で暮らしていると、何か得体のしれない大きな大きな時代の変化を、思わず感じずにはいられません。 












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